昭和バブルの夢!お蔵入りになった幻の国産スーパーカー6選

幻の国産スーパーカー

1980年代の昭和のバブル景気に沸いていた時代といえば、やはり高級車が真っ先に頭に浮かんできます。

現実的ではないと分かっていても、今も昔も色褪せることはない「スーパーカー」への憧れ。

手の届かないような雲の上の存在とも思える夢のクルマに街で偶然にも遭遇したときに、その圧倒的なオーラをまとった姿に感じるトキメキは、今でもクルマ好きな者たちにとってはたまらない一瞬だろうと思います。

スーパーカーと言えば、誰しも外国のクルマを思い浮かべると思いますが、1990年にホンダがNSXを発売して以降、日本にもレクサスLF-A日産GT-Rをはじめとした「スーパーカー」と呼べそうな車が登場してきました。

しかし、時代をさかのぼれば、実はその裏で市販こそされなかったものの、夢の国産スーパーカーが存在していました。

そこで今回は、1970年代からバブルに湧く1990年初頭までに生まれた、それぞれのメーカーが描く理想を形にした、輝く未来を感じさせた魅力あるクルマたちを紹介します。

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レース仲間で夢に挑んだ意欲作

世界に対抗するために開発された「童夢-零」

出典:https://media.ancar.jp/channel/?utm_source=channel&utm_medium=media

国産スーパーカーの中でも伝説的存在といえるのは「童夢・零」ではないだろうか。

世界に対抗する「国産オリジナルのスーパーカー」という大きな夢をかかげ、当時オリジナルレースカーを製作していた林みのる氏が、レースで知り合った仲間を募り、日本初の「スーパーカーメーカー」としての可能性を秘めた「童夢」を設立し、1975年頃にプロジェクトをスタートさせました。

その3年後の1978年にジュネーヴモーターショーで世界に向けて公開されたのが「童夢」の意欲作「零(ゼロ)」でした。

当時のフェラーリやランボルギーニより一回り小さいボディー。
スチール製パイプをFRPで覆ったセミモノコック構造のシャシーに、日産L28型エンジンを縦置きにミドシップマウント。

居住性を無視した異様に低いフォルム、とてつもなく平べったいその姿はまさしくスーパーカーとして多くの人から注目を浴びました。

出典:http://www.dome.co.jp/news/news/news_report_060913.html

「役所の壁」に阻まれた夢

「零」は言うまでもなくレーシングカー製作から得られたノウハウによって作り上げられました。

童夢はレーシングカーを作って世界のレースに打って出るための「資金稼ぎ」もかねて、市販を考えてテスト走行を入念に行っていたものの、当時の運輸省から市販車としての認可を得ることが出来ず、日本国内での市販化プロジェクトは断念。

童夢が自動車製造業ではなく自動車関連会社だっために運輸省(現在の国土交通省)が首を縦に振ることはありませんでした。

しかし、幸いにも時はスーパーカーブーム!
公道を走らせられなかった「童夢・零」は、世界の舞台に華々しくデビューしたこともあり、少年たちを虜にしていきます。

主に玩具メーカーから発売されたプラモデルや消しゴムなど、200種にものぼるグッズとして大ヒット。

これにより、その版権収入も資金の一部となって「童夢」は巨額の富を得ることに成功しました。

その後、かつてからの目標であった国際レースに出場することになり、ルマン参戦プロジェクトから始まるトップレーシングコンストラクターへの道を開いたのは、このクルマがもたらした功績だと言われています。

酒の席で生まれた一大プロジェクト

童夢の掲げた第二の夢。「ジオット・キャスピタ」

バブル景気に沸いたあの時代、企業の多角経営、新規参入の動きがよく見られました。
なかでも、女性のインナーウエア専門のワコールがクルマ作りの世界に参入したのはさすがに衝撃でした。

きっかけは、1986年に童夢社長の林みのる氏ともともと親交のあったワコール社長の塚本能交氏、そして富士重工業ラリーチーム監督の高岡祥郎の3氏が銀座で飲んだ時に意気投合して決まったという嘘のようなプロジェクトでした。

「零」で挫折した童夢でしたが、話しは、とんとん拍子に進み、それから2年後の1988年に「ワコール」の関連会社として設立された「ジオット」からの出資を受けて2台のスーパーカー「ジオット・キャスピタ」を完成させました。

流麗な美しいボディにスバルのF1用水平対向12気筒エンジン、そして2台目にはジャッドのF1用V10エンジンを搭載し、まさに「公道を走るレーシングカー」として販売予定だったのです。

新たな分野に挑戦(2)/ ワコール

1988(昭和63)年、それまでのアウターウエア事業部を独立、分社化し株式会社ポイントアップを設立しました。
そのほか同年、メンズウェア『バッドスレッズ』の直営第1号店が東京西麻布にオープン。またフローズン・ヨーグルト販売店のチェーン展開など、それまでの下着の発想から飛び出した新規事業を意欲的に試みました。
若者に人気のあるスーパースポーツカーを開発し、それをイメージコアに、さまざまな商品分野でライセンスビジネスを展開するブランドとして『ジオット・キャピスタ』を開発。メンズウェアやグッズを中心に展開しました。

その頃、エンジンを供給するはずだったスバルは、イタリアのコロニーと共同でF1進出したものの、僅か半年で撤退し、91年に市販化が予定されていたこのプロジェクトからも撤退してしまいます。

エンジン供給元を失ったキャスピタは、エンジン探しに奔走。

2号車にはイギリスのレーシングエンジンビルダーのエンジン・ディベロップメント製のF1用ジャッドV10エンジンが搭載され、公道テストも行われた。

しかし、開発にモタついている間にバブル景気が終わってしまい、最終的にはバブルの崩壊とともに93年7月ついに市販化を断念した。

男性向けブランドのイメージリーダーとして、バブル景気の中で事業拡大を図っていたワコールの野心的な計画でしたが、結局作られたのはその2台の試作車だけで終ってしまいました。

そもそも「F1用エンジンを搭載した」とはいえ、スバルエンジンを搭載したコローニも、ジャッドエンジンを搭載したスクーデリア・イタリアも当時のF1では「予選もまともに通過できないF1最弱チーム」だったので、ワコールのイメージ向上にはあまり貢献しなかったかもしれません。


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ヤハマ悲願の自社製スポーツカー

ヤマハOX-99-11

2輪に止まらず4輪でも、世界的にその名を知られる存在となりつつあったヤマハ発動機は、1980年代後半、モータースポーツの舞台でエンジンサプライヤーとして名を馳せていました。

そもそも、ずっと昔から四輪車を開発していたヤマハは、1988年には全日本F3000で鈴木亜久里とともにチャンピオンを獲得し、その後の1989年からは遂に世界最高峰のF1へもエンジンコンストラクター(供給者)として進出を始めていたのです。

そのF1用V12エンジンを搭載した「OX99-11」というスーパーカーを1992年に東京でモーターショー発表し、メディアを賑わせました。

以前から市販トヨタ車のスポーツエンジンを手がけてきた彼らにとって、ヤマハの四輪車”YAMAHA”を冠した自社製スポーツカーはまさに悲願だったと言えるでしょう。

デチューンしたというヤマハ製3.5L V12ユニットのF1用エンジンは、カーボンファイバー製モノコックにミドシップマウントされ、その最高速度は350km/hとも言われており、軽量な車体も相まって驚異的な運動性能を持っていました。

またヘッド上部には巨大なインダクションポッドが搭載されたデザインは、まさにF1マシンを彷彿とさせる作りになっています。

最大の特徴は、真ん中に乗ったドライバーの後ろに同乗者が乗るという、二人乗り軍用機のようなスタイルであり、あの「マクラーレンF1」に先がげて、車体中央にドライビングポジションを置くセンターコクピットが採用されていたのです。

1994年発売開始とアナウンスされたものの、残念なことに発表のタイミングがバブル崩壊直後だったこともあり、1億円オーバーのプライスに買い手はつかず、1993年にはプロジェクトそのものが中止、名実ともに「幻のスーパーカー」となってしまったのです。

三菱の技術を集約した夢のスーパースポーツ

三菱 HSRⅡ

1989年モーターショーで発表された三菱自動車「HSR-Ⅱ」

1980年代、三菱自動車は「フルライン4WD」を掲げ、自社製のラインナップのすべてを4輪駆動化する独自のブランドを確立しつつありました。

現在もGTOやランサーエボリューションはまさに三菱の象徴といえる存在ですが、その登場を前にして生まれたのが、当時研究段階だった数多くのハイテクデバイスを集約したこの先行実験車「HSR-Ⅱ」でした。

出典:http://www.carstyling.ru/en/car/1989_mitsubishi_hsr_ii/

「HSR-Ⅱ」は、まさに夢のスーパースポーツでした。

後にGTOに搭載されたものと同じ3.0L V6 DOHCツインターボエンジンは350馬力を発生し、これにフルタイム4WDシステム、4輪操舵システム、アクティブサスペンション、4輪ABSを組み合わせています。

これらに加え航空機のフラップのような可変式空力デバイスまでも搭載し、それらをコンピュータにより統合制御するというハイテクマシンだったのです。

可変する空力パーツ

出典:http://www.carstyling.ru/en/car/1989_mitsubishi_hsr_ii/

リヤには航空機のようなフラップが装備されており、コーナーリングスピードに合わせて左右のフラップが自動的にダウンフォースを調整する。

出典:http://www.carstyling.ru/en/car/1989_mitsubishi_hsr_ii/

フロントにもカナード(整流版)がありスピードに合わせて自動的に出てきます。

形式は大きく異なるものの、この空力パーツを可変させると言うアイディアは「アクティブエアロシステム」として初代GTOに引き継がれました。

驚くべきは、その最新技術のほとんどが1990年にデビューを果たした、GTOに採用されており、三菱は電子制御アクティブサスペンション、そして4WSを組み合わせた4輪駆動システムまで、市販化に踏み切っているのです。

市販化を目の前に開発が中止

日産 MID-4Ⅱ

日産自動車が1985年の東京モーターショーで発表したコンセプトカー「MID-4」。

当時まだ実績のない電子制御4WDと4WS(4輪操舵)を採用し、スポーツカーにとって理想的とされるミドシップレイアウトの組み合わせは、今振り返れば20年以上も先を見据えた壮大な開発費用の掛かるプロジェクトでした。

「スカイラインの父」として知られる桜井眞一郎氏が、このクルマの開発主査を務め、最新技術が一切の妥協無くつぎ込まれた「MID-4」は、ミドシップエンジンと4WDという夢の組み合わせに大きな反響を呼び、市販化を熱望する声を多く得ていました。

そんな、市販化を熱く要望する声を受けて1987年に再び発表された「MID-4Ⅱ」では、市販化を見据えたデザインに一新され、新開発のV6ツインターボエンジン「VG30DETT」は330馬力を発生するのに加え、エンジンの縦置き化でよりスパルタンなパッケージへと進化した。

またビスカスカップリング式のデフ&LSDを駆使した4WDシステムも、さらなるブラッシュアップが図られて、パフォーマンスも”スーパーカー”と呼べるレベルにまで高められました。

しかし、最新技術導入の開発コスト高騰により販売価格の試算が2000万円を超えてしまうことになり、やむなく開発を断念、市販化は中止になってしまいました。

その後、日産は「スカイラインGT-R」で電子制御4WD”アテーサET-S”を、「フェアレディZ」でVG30DETTエンジンを、MID-4Ⅱで養われた技術を元に、それぞれ実用化したのです。

MID-4Ⅱの市販化断念は、非常に残念な結果ではあったが、今や忘れ去られた存在のMID-4はまさに「技術の日産」の礎を築いたクルマと言えるでしょう。


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次世代のロータリースポーツ

MAZDA RX-500

国産スーパーカーの元祖と言えば、前述した「童夢-零」を真っ先に思い浮かべるのだろうが、1970年の東京モーターショーに登場し、話題となったマツダRX500もスーパーカーの元祖と呼ぶにふさわしい正真正銘のジャパニーズ・スーパーカーではないだろうか。

マツダ創立50周年を記念して作られ、未来的なデザインを取り入れたこのRX500は、ウェッジシェイプをかなり効かせたボディに、ガルウイングドア(正式には「バタフライウィングドア」)を装着したミッドシップの本格派であり、映画『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイムマシンになったデロリアン「DMC-12」(1981年)を彷彿させます。

出典:https://www.webcartop.jp/2017/05/114290

「RX-500」は、パ・フランコルシャン24時間用に製作されたレース用エンジン10A型ロータリーがそのままミドシップに搭載され、ミッションはマツダ初のFF車、ルーチェロータリークーペ(RX87)のミッションを流用したマツダの次世代ロータリースポーツを開発する為の実験車でした。

出典:https://www.webcartop.jp/2017/05/114290

車重はわずか850kgしかなく、出力は15000rpmの超高回転で247psを発揮し、パワーウェイトレシオでは、後に開発されたFD-3S型 RX-7をも凌ぐスペックを誇りました。

出典:https://www.webcartop.jp/2017/05/114290

また「RX-500」は、マツダのコンセプトカーではなく実験車だったこともあり、検証パーツとしてブレーキにも4ポッドキャリパーを装着するなど、足回りもスパルタンな仕様となっていました。

風洞実験によって見出されたボディーのシューティングブレイク風のシルエットは特徴的なもので、開発段階では通常のクーペボディや、リアウィングが付くレーシーな形状も考案されていたといいます。

カウンタックよりも早くガルウィングドアを採用!

出典:https://www.webcartop.jp/2017/05/114290

エクステリアデザインは、マツダの福田成徳氏が担当し、1971年に発表されたガルウイングが代名詞のランボルギーニ・カウンタックよりも先にガルウイングをいち早く採用していたことからも、RX500の先進性がどれほどだったかがよくわかります。

出典:https://www.webcartop.jp/2017/05/114290

最初はリトラクタブルライト風のダミーライト(?)だったようだが、埋め込み式のライトに変更されカッコよく仕上げられています。

しかし、RX500は量産にはこぎつけず、結局、試作車のこの一台でお蔵入りとなってしまいました。

最近ではレストアが施され、グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピードなどのイベントに再び姿を見せるようになった幻の1台です。

まとめ

出典:https://clicccar.com/2016/04/22/368021/

歴史の山に埋もれた、幻の国産スーパーカーの数々。いかがでしたか?

1970年代にはスーパーカーブーム、1980年代はバブル景気という追い風を受け、エンジニアや自動車ファンの夢を乗せて、これらのクルマは生まれました。

このように、かなり本気度の高い各メーカー入魂の一台になっているにもかかわらず、陽の目を見ることなく埋もれていった国産スーパーカーの数々。

もし、あの時代に、国産スーパーカーが実際に発売されていたら、日本のスポーツカー史や世界のスーパーカー史もかなり変わったのだろうか?

近年レーシングカーでも市販車でも、効率や空力を優先した結果、デザイン的には、ほとんど同じような形になってしまって決して個性的・魅力的とはいえないクルマが増えてきた今の時代だからこそ、こういう理屈抜きのカッコいいクルマの登場が待ち望まれるところだ。

ここに登場した国産スーパーカーが、そのままの姿で公道を走ることは無かったものの、その開発で培われたテクノロジーはその後何らかの形で、それぞれのメーカーに多大な影響を与えていることは間違いないでしょう。

引用:Motorz –etc

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