お小遣い
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小学生の頃、とても貧乏で(今でもそうだけど)親からお小遣いなんて滅多に貰うことはなかった。だけど僕らには、月2回のボーナスがあった。 それは、軍人の月2回ある給料日(ペイデイ)の週末、日曜日早朝のことだ。当時は、ベトナム戦争の真っ最中で戦地へ発つ前の兵士達がお金なんか持ってもしょうがないとばかりにセンター通りや基地周辺の町で豪遊を繰り広げた。兵士は小銭がポケットに貯まると、それをイヤがってポケットからお金を掻き出して捨てるのである。そんなお金を拾うためにセンター通りの日曜の朝は、近所の子供達でいっぱいで、噂を聞きつけて隣町の子供達も来ていました。たまには、ドル札も落ちていて高額なお金を拾うともうヒーローそのもので、鼻が高かったのを覚えています。 私たちの遊び道具(グローブ・バット・プラモ・その他)は、全てそんなお金でまかなっていました。 (最終更新2007/05/10/Thu/15:14:43)
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1ドルの価値
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この話は、語り継がれてよく聞く話だけどあえてこちらでも話してみたい!我々年代のコザの人なら誰しも体験、又は耳にする話だ。 60年代当時、我々子供には1ドルはとてつもなく高額な紙幣で、これを所有するだけで近所の子供達のヒーローになれた。1セントで駄菓子屋であめ玉が3個も買えた時代だ。月に1〜2回、親から5セントを貰えるか、貰えないかの時に友達5人に5セントをおごってもまだ沢山余るのである、モテはやされるのは当たり前でした。 では、1ドルでは、どんなことが出来たかというと当時の大人が、コザからバスに乗って那覇に行き映画を見て、帰りに沖縄そばを食べてまた、バスに乗ってコザまで返って来てもお釣りがあるのです。 500〜1000ドルで石屋〜(コンクリートの家)が建つと云われた時代でした。 (最終更新2007/05/10/Thu/15:15:12)
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ペプシ&コカコーラ か ミスターコーラ&ベストソーダか
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子供の頃、両親は共働きでセンター通りにお店を開いていた。外人相手の商売というわけではないが、外人が多かったのは云うまでもない。毎日忙しそうで当然子供達の相手をしている暇はないので、ほんのたまにではあるが、ご飯を作れなかったから何かを買って食べなさいと10セントを手渡す。 さてここからが問題の始まりで、チャンスとばかりに当時滅多に飲めないコーラを飲もうと考える。しかし、ペプシコーラとコカコーラは高価な飲み物で1本10セントもした。県産品のミスターコーラ、ベストソーダは、1本5セントだ! しかし味が全く違うやっぱりペプシやコカコーラはとてもおいしいし、ミスターコーラは味が濃くて酸味がとても強い、ベストソーダは今のクリームソーダによく似ている。だけどお腹もすいているので5セントのあんパンも買いたい、10セントでとてもおいしいペプシやコカコーラ1本を買ってリッチな気分を味わうか、それともミスターコーラかベストソーダとパンを買って飢えを凌ぐか究極の選択に悩まされた。 (最終更新2007/05/10/Thu/15:16:04)
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マチヤーグヮー(一銭マチヤ=駄菓子屋)
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ほんのたまにもらえるお小遣いの5セントは、子供達の社交場である一銭マチヤ(駄菓子屋)へと誘う、そこは子供達にとってお宝の山で埋まっていた。いつも勢い良く駆け込み「おばさ〜ん、買おぅ〜!」と叫ぶと決まって奥からおばさんが顔を出し「おばさんは売ってないよ〜」と言われたものだ。駄菓子屋ではワクワクしながら毎回悩まされた、まずはのどが渇いてるので2セントのミッキージュースは必ず買うとして、残り3セントで何を買おうか・・?ストローゼリー・クロボウ・ひもで引っ張る3角飴・カルキ・しおせんべいとどれも捨てがたい、だけどお腹が空いているので大抵は、塩せんべいとクロボウ、酢昆布が定番だった。塩せんべいにビニール入りのチョコレートをかけて食べるのが流行ってはいたがセンターでは、この食べ方は男らしくないと言うことで堂々と食べることが出来ない。そこで友達のいないときにこっそりと食べなければならないし、又ピンクの砂糖が塗られた「赤せんべい」もしばらくは男が食べるのはタブーだった。
(最終更新2007/05/10/Thu/15:17:44)
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アイスケーキ
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沖縄のうだるような暑い夏にはアイスケーキが何よりのご馳走だった。アイスケーキとは、アイスキャンディーのことであり子供の頃は、三角のビニール袋に入ったミッキージュースと並び買い食いの必須アイテムであった。この2品は、一銭マチヤでも他の商店でもたくさん売られていたが、アイスケーキに関しては、鐘をならして自転車で売りにくるおじさんを心待ちにしていた。カランコロン、カランコロンという鐘の音が聞こえると近所の子供達が一斉に集まり2〜3セントのアイスケーキを自転車のおじさんから買う、するとおじさんは集まった子供達を確認しておもむろに紙芝居を取り出し子供達の前で熱演してくれるのだ。この紙芝居がまた迫真の弁舌で子供達を物語の中へ引き込んでいき熱中させてくれた。思えば和洋の童話は本よりもこの紙芝居で全て覚えたような気がする。 そう言えば、アイスケーキの他にカンカンに入った水飴を自転車で売りにくるおじさんもいたっけ、短い割り箸に透明の水飴かピンクの水飴をクルクルと巻き取って1〜2セントで売ってくれるのだ。当時はそんな子供達のヒーローがたくさん存在した。 (最終更新2007/05/10/Thu/15:18:12)
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ミッキージュース
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先程から話に登場するミッキージュース、三角のビニール袋に入った甘い魅惑の飲み物!その飲み方には子供ながらに工夫があった。 あけ口をそのまま歯で食いちぎって飲んでしまうとドバッと出てしまいすぐに無くなってしまう。それではあまりにも忍びなく間が保たない、ではどうしたかと言うと開け口のすぐ脇に針で小さな穴を開けて、ミッキージュースをギュッと握るのである。するとジュースが小さな穴から細い糸のように勢いよく出てくるので、それを口にめがけて発射させて少しずつ少しずつ飲み味を堪能する。これで何分間でも保たせることが出来たし、この飲み方で友達とどれだけ口から離して飲むことが出来るかを競い合ったりもしたものだ。少ない小遣いでどれだけ長く楽しむかの知恵であった。 (最終更新2007/05/10/Thu/15:18:36)
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虹色の空
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物心付いた時から既に、センター通りは、沖縄を代表する繁華街として賑わっていた。通りには、バーやキャバレーが建ち並び、看板はそのほとんどがネオンで飾られ、さながら現在のラスベガスを彷彿させる。ポパイのような水兵さん、軍服をパシッと着込んだ凛々しい軍人、Gパン姿の外人グループなど様々な格好をした軍人が所狭しと歩き、どこのお店も繁盛しているようだった。そんな場所でお店を開業している父親が、忙しさの合間を縫って、たまに海にもつれていってくれた。北部、恩納村の海で夕暮れまで思いっきり遊んで、疲れ切って帰路に就く。途中、車の中で寝込んでしまうのだけど読谷村にさしかかったところで必ず、父親が起こしてくれる。「見てごらん!」と指さす方向を見ると、一面暗闇の丘の向こうのセンター通りのある方角で、色とりどりのネオンの光で空が虹色に輝いているのだ。それはもうオアシスのようにとても美しく見え、気持ちがとても落ち着き、一番大好きな光景だった。
(最終更新2007/05/10/Thu/15:18:59)
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