日本史上で初めてとされる出来事を集めてみた♪

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日本史上初

  • 史上初めてワイロを受け取った人物
  • 初めて輸入された自転車
  • 一番最初に校歌が出来た学校
  • 初めてボーナスを支給した会社
  • 医学の「献体第一号」になった人物
  • 特許第一号の発明
  • ヴィトンのバッグを最初に買った日本人
  • 一番最初にカレーライスを食べた人物

史上初めてワイロを受け取った人物とは

5世紀から6世紀半ばにかけて、大伴金村という豪族が「大連(おおむらじ)」という役職についていた。

「大連」は、ヤマト政権の最高職に近く、現在の主要閣僚クラスにあたる。

「日本書紀」には、この金村が朝鮮半島の百済からワイロを受け取ったという噂が記されている。

540年には、この噂をめぐって、物部氏から攻撃された金村が失脚するという政争にも発展した。

金村が本当にわいろを受け取っていたかどうかは不明だが、日本史上、ワイロをめぐる話が登場するのは、この金村の話が、最初である。

初めて輸入された自転車

日本が初めて自転車を輸入したのは、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の頃、ただし、自転車というよりも、現在の幼児用三輪車に近く、庭で遊ぶ遊具というタイプの乗り物だった。

やがて、三輪ではあるが、往来を走れる本格的な自転車が輸入されるようになり、物珍しさもあってその自転車のレンタル業が始まった。

ただし、ブームは一時的なもので、広く一般にまで普及することはなかった。

二輪車の自転車が輸入されたのは、明治20年頃であり、以降、次第に輸入台数が増えていき、「国産車」も現れて、大正時代にはポピュラーな乗り物となっていった。

一番最初に校歌ができた学校

今では、全国ほとんどの小、中、高や大学には校歌がある。

日本で初めて校歌が歌われたのは、1878年(明治11年)のこと。
現在のお茶の水女子大の前身、東京女子師範学校でのことだった。

同校がその3年前の1875年(明治8年)に開校した際に、明治天皇の皇后(昭憲皇太后)から和歌が下賜(かし)された。

その和歌「みがかずば 玉も鏡も なにかせん 学びの道も かくこそありけり」に曲をつけて校歌とし、学生たちが歌ったことが、日本の校歌の始まりとされる。

その後、全国的に校歌を作る学校が増えたのは、明治20年代になってからのことだった。

初めてボーナスを支給した会社

サラリーマンにとって夏冬の楽しみといえばボーナスだが、日本では1876年(明治9年)に三菱商会で初めてボーナスが支給された。

三菱商会は今の三菱商事の前身であり、岩崎弥太郎を初代の経営者とする。

以後、日本の大企業は三菱商会にならって、ボーナスを支給しはじめた。

それは、日本の伝統の復活でもあった。
江戸時代の職人社会や商人社会では、毎年盆と暮れの2回、番頭や手代に一時金が支給されていた。
江戸時代には、すでにボーナスに似た仕組みがあり、それを三菱商会は「賞与」という形に改めたのだ。

当時、欧米にはすでにボーナスという仕組みがあり、一定以上の利益をあげた場合に限って、特別に支給されていた。

三菱商会は、そのシステムも参考に、日本型のボーナスを導入したと考えられる。

医学の「献体第一号」になった人物

「献体」とは、死後、自らの遺体を医学上の研究に役立てるために提供すること。

日本で初めて献体したのは、1869年(明治2年)現在の東京大学医学部の前身の医療施設へ献体した34歳の女性で、美幾という吉原の遊女だった。

彼女の周囲に、科学者の宇都宮三郎という人物がいて、彼は脚気にかかって死が近いことを覚悟し、献体第一号になる決意を固めていた。

ところが、彼が亡くなる前に、美幾が「医学の役に立ちたい」と願って息を引き取ったのだった。

なお、作家の渡辺淳一は、彼女をモデルにして「白き旅立ち」という小説を描いている。

特許第一号の発明

日本の特許第一号が生まれたのは、特許法が成立した1885年(明治18年)の8月のことだった。

出願者は、漆(うるし)工芸家の堀田瑞松という人物。

彼が発明した「堀田錆止塗料及其塗法」が特許第一号に認められた。

船用の錆止め塗料とその塗り方に関する発明だった。

彼は、鉄船の塗料が劣化しやすいことを知って、漆工芸で使う漆を応用して、新たな塗料を作ったのだ。

堀田の塗料は画期的なもので、たちまち世界に広まって、明治時代の貴重な外貨獲得源のひとつになった。

ヴィトンのバッグを最初に買った日本人

ルイ・ヴィトンは、ご存じのように、バッグやトランクなどで有名な、フランスを代表する高級ブランドだ。1854年の創業以来、高い人気を誇ってきた。

そんなルイ・ヴィトンのバッグを最初に手に入れた日本人は、明治維新にあたって功績があった土佐の政治家、後藤象二郎だったとみられる。

後藤象二郎がルイ・ヴィトンで買い物をしたのは、視察のために渡仏した1883年(明治16年)1月30日のことだった。

ルイ・ヴィトンのパリ店に残された顧客名簿には、後藤の名前が今も記されている。
それによると、後藤は、ストライプ柄トランクを購入したようだ。

なお、LV を組み合わせたおなじみの柄が登場するのは、それから10年以上も後のことであった。

一番最初にカレーライスを食べた人物

今や、カレーライスは日本の国民食のひとつといってもいいほどだが、日本人が初めてカレーライスに出会ったのは、明治初期のことだった。

日本人として初めてカレーライスを食べたのは、国費留学生としてアメリカへ向かう途中の山川健次郎という16歳の少年だったとみられる。

彼は、1871年(明治4年)アメリカへ渡るために、日本郵船のパシフィック・メイル号に乗り込んだ。

しかし、船酔いをしたうえに、出される料理は肉料理ばかり。
肉料理など食べたことのない健次郎少年は、ますます食欲をなくしていった。

そんなとき、メニューに見つけたのがカレーライスと書かれた文字だった。
とにかくライス(ご飯)が食べたい一心だった彼は、カレーライスがどんなものかも分からぬままに注文したという。

健次郎少年がカレーライスを食べてどんな感想を持ったのかについては伝わっていないが、とにかく一杯のカレーに救われた彼は、その後、エール大学で学んで帰国。

日本で初めての理学博士となり、東京帝国大学の総長まで務めあげた。

引用図書:

 

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